a note book of so what?

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Nov 26
“以前、日本のどこかのテレビ局が、「ザ・ワセダ」という特集番組を放映し、その中で早稲田と慶応の学生を比較して、どちらが先頭で前を手拭いで隠すかというまことにバカバカしい質問をしていた。答えは早稲田。なぜなら、慶応の学生はウチ風呂に慣れているから案外平気だという。バカバカしさを通り越して少々腹が立ったが(というのはぼくは早稲田出身なので、他人事とは考えられず、のめり込んでしまったわけ)、NYACでは七〇パーセントが前を大きなタオルで包み込んでいる。”

ウォール・ストリート日記―アメリカビジネスマンの昼と夜


Nov 5
“伊藤整は『新科学的』の同人である一方、季刊雑誌『新文学研究』(昭和六年一月)の編集にあたっていた。この『新文学研究』についてはすでに述べたが、そのときに書いておこうと思って、書き忘れたことがある。それは、こうした大型季刊雑誌の流行時代は、同時に小型廉価本の小説叢書の続出したときでもあったということである。円本の氾濫によって読者の購買力が衰えたため、小型廉価本が出てきたのであろうが、クォータリー形式というものもまた(ーーその創始者は春山行夫である。)同様の条件から生れたものと思われる。片方は、買いやすい小型廉価本なのに、片方は大型でページも厚く、定価も高いという正反対のものが、同一の条件から生れたというのは奇妙なもので、しかしそれは事実だったと思われる。” 高見順(昭和文学盛衰史)

Jun 27
“末法思想がいかに時代思潮となっていたにせよ、それだけでは生きた史論は発生しえなかった。末世の体現者とその活躍を凝視し、ひいてはその存在を歴史を動かすエネルギーと認知することで、新しい歴史記述の方法が立ち上がってくる。その代表格が怨霊である。” 『歴史を問う1 神話と歴史の間で』(上村忠男・大貫隆・月本昭男・二宮宏之・山本ひろ子)

“歴史とは何等の在ったものを概念的に再構成することではない。むしろ歴史とは以前の現実の現実性を奪い去ることであり、それを「存在のひとつの全く他の範疇」へ導き入れることである。歴史叙述が作り出す像は新たな、いわば一層高い度の現実である。歴史的に見ることによって、我々は過去の生活を現在化するのではなく、却ってそれを無時間的にするのである。” 三木清『構想力の論理』

Jun 10

私は、世界中どこの本屋へ行っても並んでいない、映像が中心になった本のシリーズを考えていた。

何人かカメラマン候補を得た。

才能らしきものはあるのだが、上がってくるのは、ごく初級のつまらない絵であった。

辿って行くコースは、決まりきっていた。なんとなく動物や自然を撮っている。

それから、出産などの劇的な瞬間をねらうようになる。

次には、ごく個人的な趣味的な映像を撮るようになって、壁にぶつかり、新しいものが出てくる前に気力を失っていく。

カメラマンは、カメラマンになりたがった。

「動物王国ノクターン」(畑正憲 角川書店)

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